SFは「グッドドクター」を乗り越えられるのか?
Alec Nevala-Lee(アレック・ネヴァラ=リー)は、最近出版した著書「Astounding」の中で、ジョン・W・キャンベル、ロバート・A・ハインライン、L・ロン・ハバード、そしてアイザック・アシモフの4人の主要人物を追うことによって、アメリカのSFの黄金時代を振り返っている。アシモフ氏の正確な生年月日は不明なのだが、米国時間1月2日に公式な生誕100歳を迎えた。
ネヴァラ=リーによる詳細なアシモフの姿は、同じジャンルの他の創始者たちに対するものよりも、はるかに共感をもって描かれている。彼は魅力的で謙虚な人物であり、他の作家や編集者には寛大で、政治的に進歩的な思索家であり、科学と合理性のたゆみない擁護者だった。ちなみに彼は、ファンの間では別名「グッドドクター」の名で親しまれていた。
しかし、ネヴァラ=リーは、アシモフの物語の別の側面についてはっきりと述べている。彼は女性の身体を悪びれることなく触る人物だったのだ。
Astoundingで詳しく述べられているように、米国のSF作家であるジュディス・メリルは、アシモフは若い頃「百の手を持つ男」として知られていたと語った。また別の米国のSF作家であるハーラン・エリスンは、「若い女性と一緒に階段を上るときには、アイザックが彼女の尻に触らないように、私がその女性の後ろを歩いたものさ」と書いている。そして、フレデリック・ポールは、アシモフが彼に「昔から良く言われてるけど、ひっぱたかれる数が多いほど、寝る数も多くなるものさ」と言ったことさえ思い出している。
そして、これらはアシモフを批判したり非難したりする者の言葉ではない。彼らはみな、彼の友人や仲間なのだ。アシモフの手癖はとてもよく知られていたので、1962年に世界SF大会の議長は彼に「The Positive Power of Posterior Pinching」(尻つねりの肯定的な効用)について講演を行うように依頼したほどだ(訳注:この講演は結局実現していない)。
2014年に私が、BuzzFeed上でアシモフの誕生日エッセイを書いたときには、すでにアシモフの振る舞いの噂は耳にしていた。しかしそのエッセイでは、私は彼の作品に対する個人的な関係を述べるだけにとどめていた。具体的にはファウンデーションとロボットシリーズが私を生涯続くSFファンにしてくれたこと、そして彼の広範なノンフィクションがいかに私の世界を広げてくれたのかといったことについて書いたのだ。
それから6年経った今でも、(アーシュラ・K・ル=グウィン、サミュエル・R・ディレイニー、フィリップ・K・ディックと並んで)アシモフは私のお気に入りの1人だ。ニュースに登場する彼を称賛できることは私の喜びなのだ。
それでも、彼の性格のあまり称賛されない側面を無視することはますます難しくなっているようだ。ファン、友人、その他の擁護者たちはエリスンがそうであったように、「今とは時代が違っていた」と主張するかもしれない。アシモフは彼の行動を「無害なもの」とみなしていたし、それ以外の称賛に値するキャリアの前では比較的軽微な傷だというわけだ。しかし、さまざまな大会でのハラスメントは深刻な問題であり、もしアシモフが1992年に死去していなかったなら、#MeToo時代を無傷で逃げおおせた、もしくは逃げおおせるべきだったと想像することは困難だ。
テレビ評論家のEmily Nussbaum(エミリー・ナスバウム)は、そのエッセイ「Confessions of a Human Shield」の中で、「ひどい男性の芸術をどう扱うべきか?」と問いかけている。
これまでは、ナスバウムは芸術と芸術家を分けて考える従来の方法に従っていたと言う。「真っ当な人が、良くない芸術を生み出すこともあるし、道徳に反する人でも、優れた作品を創り出すことができる。残酷で利己的な人、たとえ犯罪者であったとしても、寛大で、生きる力を与え、人道的なものを作るかもしれない」。しかし今、彼女はこうした「ソシオパスを扱う方法」はもはや満足できるものではないことを認めている。
それは、そのパーソナリティが作品と切り離せないように思えるアシモフの場合に特に当てはまる。作家としての彼の強みの1つは、明快で語り上手で、まるで個人的に語りかけているように思わせる能力だ。彼の科学の本やエッセイのいずれかを読めば、あなたの親友であるアイザックが、あなたが理解できるやりかたで、物事を説明してくれているような印象が残される。彼のSF小説でさえ、その親しみやすい声で書かれた自伝的なエッセイが前書きとして置かれているのが普通だ。
だから私にとって、それは単に芸術と芸術家を分ければ良いという問題ではないのだ。アシモフの書いたものの中の本当に多くの称賛されるべきものが、彼自身の中から生み出されているように思えること、他のどんな作家よりも私の世界観を形作る手助けをしてくれて、(6年前に書いたように)「アイデアが重要で宇宙は説明可能だ」と、私を納得させてくれたことは認めなければならないし…その一方で女性に言い訳のできない振る舞いをしていたことも、認めなければならないのだ。
だが結局のところ、アシモフの評判に対する最大の脅威はもっと単純なことなのかもしれない、すなわち「時の経過」ということだ。
SFは過去10年で劇的に変化し、才能豊かで多様な作家グループがこの分野を再編して来た。アシモフ、ハインライン、そしてアーサー・C・クラークを中心としない新しい一団が形成されている。作家のジョン・スコルジーが言ったように、「ハインラインやクラーク、そしてアシモフといった人たちは巨人だった。しかし、巨人たちが新しい神々によって打ち倒され、そうした神々自身もまた時とともに置き換えられて行くという物語を忘れてはいけない」のだ。
おそらくそうあるべきなのだろう。結局のところ、アシモフの作品はその時代の産物なのだ。2020年以降の読者は、彼が描いた未来を追うことがますます困難になるだろう。そこに描かれているのはパーソナルコンピューターやインターネットのない未来であり、あらゆる科学者、政治家、そして重要な人物すべてが男性であることが、注目に値するものとは思われない。(「われはロボット」に登場するロボット工学者のスーザン・キャルビン博士は例外だ。彼女の卓越性は男性が支配的な分野で今なお際立っている)。
アシモフが忘れ去られてしまいそうになっているとは思っていない。実際Apple(アップル)は、数百年にわたって物語が展開するファウンデーションシリーズに基いて、新しいTV+シリーズを制作している。なおファウンデーションシリーズとは、銀河帝国の崩壊後、文明を再建しようと努力する少数の科学者のグループの奮闘を描いた作品だ。
したがって、アシモフはおそらくすぐに、また話題になることだろう。そして、ためらいをおぼえつつも私はうれしいのだ。
なぜなら、彼は主要な技術トレンドを予測できなかったかもしれないし、彼の世界観が1930年代と40年代に根ざしているとしても、アシモフは今でも現代の私たちが直面している課題について語ってくれているからだ。彼の有名なファウンデーションやロボットシリーズだけでなく、宗教原理主義に対して科学を擁護したエッセイだけでもなく、私が最近読み直した「神々自身」(The Gods Themselves)の中にもその課題は提示されている。1972年に出版されたこの小説は、人類の愚かさ、貪欲さ、そして安価なエネルギーへの執着が、実際の脅威から私たちの目を逸らしてしまえることを描く、怖ろしい予言的な小説のままなのだ。
そしてアシモフの扱った主題の1つは皮肉なことに、この分野における彼の卓越性を浸食した、時間の経過そのものだった。彼の優れた作品は、各世代が直前の世代を置き去りにすることを熱望し、新しいアイデアで新しい問題に直面しなければならないことを明確にしている。
作家として、そして個人として、真の欠点は抱えてはいたが、アシモフは私たちに、より良いアイデアを探し、より良い未来のために働くことを勧めていた。だからこそ、彼の本は常に私の本棚に置かれているのだ。そしてだからこそ、彼のように見たり、考えたり、書いたりしない作家たちのために、その棚の一部を喜んで譲ってくれることを願うのだ。
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(翻訳:sako)