第二次ベビーブーム世代以降のほとんどの人がお世話になったはずの「蛍光ペン」。学生時代は受験勉強の相棒として、そして、社会人になって以降も事務作業はもちろん、プライベートの手帳などのライン付けなどで超便利な定番文房具として今日まで親しまれています。
しかし、この蛍光ペン、どんな成り立ちで日本の文房具市場に登場し、浸透していったかはそう多くの人に知られていません。調べてみると、ちょうど今から50年前の1974年、鉛筆メーカーを出発点にさまざまな文房具を展開するトンボ鉛筆が国産初の蛍光ペン「暗記ペン蛍光」を考案。結果、他社にも派生し、文房具業界に一大カテゴリーを開拓したと言われています。
今回は、開発前夜と浸透までの経緯について、トンボ鉛筆・川﨑雅生さんに話を聞きながら辿ります。
■鉛筆専業メーカーだったトンボ鉛筆が戦後、開発に取り組んだペン開発
本題に入る前に、まずトンボ鉛筆の成り立ちを振り返ります。
トンボ鉛筆の前身は、1913年に東京・柳橋に本店を構え開業された小川春之助商店という商店でした。開業当初は、筆や硯(すずり)、半紙といった和文房具と、西洋由来の文房具などを扱う文房具の問屋的な商店だったようですが、抜きん出て売れたのが鉛筆でした。
開業から26年後の1939年には鉛筆専業メーカーに変更し、現在のトンボ鉛筆となり、以来、日本の鉛筆文化の浸透に強い影響を与えてきました。
しかし、その鉛筆メーカーの代表の一つ、トンボ鉛筆がどうして蛍光ペンを開発するに至ったのでしょうか。川﨑さんに聞きました。
「トンボ鉛筆として再出発を図ったのですが、やがて第二次世界大戦を迎えます。戦時中は軍に配給するさまざまな文房具をつくていましたが、終戦後は軍需がなくなってしまいます。
他方、戦後の復興に際して、道路や橋を作り直したり、家を建て直すといった場面では必ず設計図が必要です。
こういった場面で鉛筆も活躍しましたが、終戦からしばらく経過すると米軍からボールペンというものが持ち込まれます。ボールペンの成り立ちはハンガリーの新聞校閲係がザラ紙の上でも滑らかに書ける筆記具を模索。先端ボールに重力流動作用でインクを出す、今のボールペンを考案したのです。1943年のことと伝わっています。
初めて日本人がボールペンの存在を知ったのは終戦の年、1945年だったそうですが、きちんとキャッチアップし、インク・ボールなどを作り、きちんと商品化するまでに10年くらいの月日が必要でした。今では世界一のボールペン輸出国となった日本ですが、一番最初は、終戦直後に開発されたものでした」(トンボ鉛筆・川﨑さん)
そのボールペン開発で培われたインクのノウハウを活かしてさらに開発されたのがフェルトペン。蛍光ペンのルーツになるペンでした。
「終戦後にアメリカの文化が日本に広まり、そのうちの一つが男性の帽子でした。フェルト製の帽子を冬場にかぶるという一つの正装スタイルで、終戦からしばらくはフェルト帽子がものすごく売れたそうです。
しかし、それからやがてフェルト帽子ブームが落ち着き、フェルト業者さんが『帽子が売れなくなった』として困っていたそうです。そんな中で余ったフェルトを細く切ってインクを染み込ませ、ペンに利用するようになります。これが日本におけるフェルトペンの発祥と言われています」(トンボ鉛筆・川﨑さん)
■真新しい蛍光ペンを前に、「光りすぎて目に悪いんじゃないか」といった誤解も
トンボ鉛筆のフェルトペンも大ヒットに至り、さらに進化し派生商品を開発していきましたが、1970年代に入るとアメリカのケミカルメーカーから「ピラニン」という蛍光染料の売り込みがありました。
トンボ鉛筆では、試しに従来のインクにその蛍光染料を合成してみたところ、「書いた文字が光って見える」ことに驚き、大いに衝撃を受けたそうです。しかし、前例のない文房具でもあるため商品化には慎重の上に慎重を重ねたとも。
「『光って見えるペン。これは素晴らしい』という意見がある一方、『光りすぎて目に悪いんじゃないか』といった意見もあり、慎重を重ねての発売でした。発売当初の商品名は『暗記ペン蛍光』です。今から50年前の1974年のことです。
ある程度予想していた真新しい蛍光ペンに対する『誤解』は少なく、発売後間もなくして爆発的な売れ方をしたと聞いています」(トンボ鉛筆・川﨑さん)
■日本で蛍光ペンがヒット・浸透した理由は「打ち出し方」にあった
実は世界に目を向けてみると、トンボ鉛筆の蛍光ペン開発より3年早い1971年に、ドイツのスワンスタビロという著名な文房具メーカーがハイライターペン、マーカーBOSSといった蛍光ペンを先立って開発・発売しています。しかし、日本におけるトンボ鉛筆の蛍光ペンほどの爆発的なヒットには至らず、この点について川﨑さんは「あくまでも憶測ですが」と前置きした上で、ある理由でトンボ鉛筆の蛍光ペンがヒットに至ったのではないかと解説してくれました。
「スワンスタビロの蛍光ペンは外観からみると、あくまでも事務用ペンとしての商品化だったように映ります。一方、私どもの蛍光ペンは、子どもたちや学生さんに向けた『暗記ペン蛍光』という名にし、『良い成績を取るための道具です』という売り方をしました。
言わば『マーケティング』をもっての売り方だったと思いますが、この辺の鼻緒のかけ方、広め方は私ども独自のものだったと自負しています。結果的に日本の他社さんも追随することとなり、蛍光ペンを一大マーケットにしたと自負しています」(トンボ鉛筆・川﨑さん)
蛍光ペンに慣れ親しんだ子どもたちがやがて大人になり、社会人になってからも事務やプライベートの場面で蛍光ペンを使い続ける今の状況を考えれば、「日本初の蛍光ペン開発」だけでなく、発売当初の打ち出し方は確かに今日まで影響を与え続ける功績と言って良いでしょう。
■紙文化減少の今でも、SNSなどでの新しいニーズも
発売当初の蛍光ペン「暗記ペン蛍光」の色数は黄色、桃色、黄緑、橙の4色でしたが、後にさまざまな色、タイプが登場。現在のトンボ鉛筆の蛍光ペンは「マーキングペン」のカテゴリーに含まれるようになりました。「蛍コート」というブランドの商品になり、現在に至ります。
50年にわたっての浸透と合わせて進化を遂げた蛍光ペンですが、近年の「紙文化の減少」の影響はないのでしょうか。
「確かに紙という媒体を利用する文化は段々狭くなっていっていますよね。一方で、SNSなどではアナログ的な文房具を使っての投稿が注目されたりして、新しいご支持をいただくようになったとも感じています。私どもが日本で初めて開発し、浸透させたと自負する蛍光ペンですが、これからも従来とは違うカタチで一人歩きしていってくれることを願っています」(トンボ鉛筆・川﨑さん)
日本における蛍光ペンの50年を辿りましたが、ここまでの変遷や今日の浸透ぶりを考えれば、どれだけ紙文化が狭まったとしても、その存在価値はさらなる未来にも続くようにも思いました。メモの重要部分にサッとひと書きできる蛍光ペン。改めてその存在価値に注目してみてはいかがでしょうか。
<取材・文=松田義人(deco)>
松田義人|編集プロダクション・deco代表。趣味は旅行、酒、料理(調理・食べる)、キャンプ、温泉、クルマ・バイクなど。クルマ・バイクはちょっと足りないような小型のものが好き。台湾に詳しく『台北以外の台湾ガイド』(亜紀書房)、『パワースポット・オブ・台湾』(玄光社)をはじめ著書多数
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